武田信玄の遺言
武田信玄が勝頼と重臣たちに残した遺言を現代風にまとめると、以下のような内容だそうです。
1.自分の死を3年間秘匿すること
2.家督は孫の信勝とするが、彼が成長するまでは勝頼が陣代として家中を統率する
3,信勝が16歳になったら、家督を相続させる
4.勝頼に「孫子の旗」(風林火山の旗)、「八幡大菩薩の旗」「将軍地蔵の旗」の使用を禁じる、
すべて信勝に相続させる
5.勝頼は「大」の旗のみを使用せよ、諏訪法性の兜の着用は許す、信勝家督後は彼に譲り渡せ
6.信長が攻めてきたら、山岳地帯で迎え、持久戦に持ち込めば、軍勢は疲弊し撤退せざるをえなくなる
7.家康は駿河の奥深くに誘い込み討ち果たせ
8.上杉謙信と和睦せよ
9.信玄の葬儀は無用、甲冑を着せて諏訪湖に沈めてくれ
この遺言から、信玄は用心深く、息子や孫の行く末を案じていたのでしょう。
今の法律で、有効なのは4と9ではないでしょうか。
まあ、これは野暮でしょうか。
まず、1の3年間秘匿しろというのは明らかに無理でしょう。忍者が入り乱れる戦国時代にありえません。
2と3は、亡き長男の子の勝信に継がせたかったという思いが感じられます。
4と5については、勝頼に風林火山の旗の使用を認めて戦った方がよかったでしょう。
6では信長を退却に追い込み、7では家康を討てとあります。
このことから家康には勝てても、信長は撃退するだけにとどまり倒すのは難しいと認識していたことがわかります。
8で謙信との和睦を主張していますが、最優先にした方がよかったのかもしれません。
さらに北条との三国同盟を組めば、家康をけん制出来たはずです。
9は一番思いがこもった遺言ですね。信長と家康に睨みをきかせる為に諏訪湖に沈めてくれ
というのですから、よほど信長が不安だったのでしょう。
むしろ、大々的に葬儀を行い、弔い合戦と称して武田軍の士気を高めた方がよかったのかもしれません。
遺言というのは、時代が変わっても、その人が何を遺族に残したかったのか、託したかったのかがよくわかります。
それが正しく伝わるよう、遺言書という形で残すことは大事ではないでしょうか。