コラム
家康の遺言と相続対策
徳川家康は、裏切りにあった信長や跡継ぎに恵まれなかった秀吉を見ていたので、遺言と相続対策は盤石でした。
まず、家康は、統治基盤を守るために相続対策を施しました。
2代目将軍・秀忠の跡目争いの際には、秀忠寵愛の三男・忠長ではなく、嫡男・家光とするよう「長幼の序」を明確にしました。
実力や能力よりも家柄と生まれの順で人生が決まります。
よい悪いはともかく、お家騒動を防ぐためのルールを作ったのでしょう。
家康は直系の子孫が断絶した場合に備えて、親族である尾張藩、紀州藩、水戸藩を徳川御三家とし、直系が途絶えたときにはその藩から跡継ぎを出す体制を構築しました。
鎌倉幕府、室町幕府と同じ轍を踏まなかったのでしょう。
自分の死後の扱いについての家康の遺言
家康は以下のような遺言を残しています。
- (自分の遺体は駿河の久能山に葬り)
- (江戸の増上寺で葬儀を行ない)
- (三河の大樹寺に位牌を納め)
- (一周忌が過ぎてから、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ)
※勧請とは、神仏の分霊を迎えて祀ること
こうして遺体は、駿府にある久能山(久能山東照宮)に葬られ、葬儀は徳川家の菩提寺である江戸の増上寺にて行われ、位牌は家康の故郷の三河にある大樹寺にて納められました。
とはいえ、このような相続対策と遺言が出来たのは、家康が認知症にならず、元気なうちに息子の秀忠を将軍職にして、自分が大御所として睨みをきかせ、豊臣家を滅ぼして75才まで長生き出来たからです。
健康に気を使ったのでしょうがかなり幸運だったと思われます。
誰でも自分の寿命は分かりません。
相続対策については家康に学ぶところがあると思います。